Collective Memory(500 Years補足)

修士課程の時に関心を引いたコースにCollective Memoryというのがあった。同じ時間帯に統計のクラスを取らなければならなかったので結局履修することは無かったけれどずっと心に引っかかっていた。と同時に当時はあまりCollective Memoryの意味、重要性を理解していなかったと思う。

博士論文のテーマはcollective memoryとは大分異なるけれど、論文のための社会構造が及びす影響力を肌レベルで強烈に体感する契機となった。フーコーの考えをこういうことだったんだと理解し始めたのもその当時だったのかもと今では思う。

そんなことを500 Yearsを見ながら思い出していた。映画ではRios Monttの娘のZury Riosやこちらの経団連に相当するCACIFの記者会見の場面が何度か登場し、どちらも映画の中では悪者として扱われているけど(ドキュメンタリーなので明確にそうとは一言も言及されていないけれど)、これらの場面は色々と考えさせられた。例えばグアテマラでは大量虐殺は無かったという意見。時にキチェ県の先住民や内戦問題に関わってきた人間にしてみたらこの考えをただ単に否定し、虐殺は存在したと主張したいのは当然かなと思うけれど、ただ単にこれを否定することも危険な思想ではある。なぜ、何故否定するに至るかを検証することは非常に重要。例えばZury Riosの場合、勿論父親の立場もあり公共の場でそう述べていることに議論の余地は無いとは思うけど、彼女自身が本当にそう考えていても不思議はない。では何故?これって内戦後のグアテマラを語る上で重要じゃないかな。

余談だけどこの映画ではデモの場面が頻繁に出るけどその中で先住民の人たちが笛(ホイッスル)や吹いたり杖を持っている場面がある。この2つというのはマヤの人々にとっては非常に重要なものだ。笛は各々の集落で何か問題が発生し、助けを呼ぶ時に用いるため一世帯にひとつは大抵あると思う。杖はマヤの指導者的な立場の人たちが持つもので丁重に扱われている。

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