Urikil ri Nicaragua

今日の晩御飯はニカラグアの定食(urikil ri Nicaragua)。現地のビール、トーニャと共に。

博論関係で現地に居た時からガジョ・ピントを始めとしたニカラグア料理は好きだったけど、今は懐かしさも加わり更に美味しく感じる。先週は色々と大変だったので特に美味しく感じた。

食堂で流れているラジオでは珍しくメルセデス・ソーサが歌う「Solo le pido a Dios」が。院生時代を思い出しながらゆっくりと食べた。

ふと学部生の頃に読んだNancy MorejónのMujer negraという詩を思い出した。以下一部抜粋:

Todavía huelo la espuma del mar que me hicieron atravesar.
La noche, no puedo recordarla.
Ni el mismo océano podría recordarla.
Pero no olvido el primer alcatraz que divisé.
Altas, las nubes, como inocentes testigos presenciales.
Acaso no he olvidado ni mi costa perdida, ni mi lengua ancestral
Me dejaron aquí y aquí he vivido.
Y porque trabajé como una bestia,
aquí volví a nacer.
A cuanta epopeya mandinga intenté recurrir.

                        Me rebelé.

Su Merced me compró en una plaza.
Bordé la casaca de su Merced y un hijo macho le parí.
Mi hijo no tuvo nombre.
Y su Merced murió a manos de un impecable lord inglés.

                        Anduve.

人口学とか統計が専門で読解力に乏しいと自覚しているけど、それでも多感な二十歳の時にこれを読んだ時はこの「anduve」という一語に衝撃を受けたのを今でも良く覚えている。

ニカラグア料理の食堂に来てメルセデス・ソーサの歌を聴いてこの詩を思い出す。やっていることは20年程前と殆ど変わらない。時は確実に過ぎ去っているのに。過去に生きているような不思議な感覚。でも実際にはそんなことはない。この詩の中における「anduve」という一単語からもっと多くの意味を引き出せる様になったのはそれだけ歳を取ったからだしね。

食後はバリオス広場でゆっくりしてから帰途へ。トランス・メトロでは帰っていないけど。スマホの写真なので絞りが上手く調整できずあまり良く撮れなかった。

キチェ語を学ぶことの難しさ

昨日の記事の補足。

前述の通りキチェ語は各地域で大分語彙が異なる。

その理由としては各地域がそれぞれ異なる山岳部に位置していることから行き交いが頻繁で無かったことが理由の一つかなと個人的には考えている。歴史を辿っていけばreducción de pueblosといった悲しく且つ複雑な理由もあるけど。また,他地域と交易をする必要もそれ程無かったのかもしれない。基本,自給自足だし。

例えばカンテル市に地方からの移民の流入が始まったのは1900年代初頭で,それも大きな繊維工場が出来たことが理由。その点ではカンテル市は特別といえる。

で,地域差がキチェ語の学習意欲を失わされる理由の一つ。特にノン・ネイティブ,つまり外国人を含む非先住民の場合,他地域で通じるキチェ語が通じない場合どうしても「あなたは先住民ではないから」と言われて学習を断念するというケースが多い。言う方にしても悪気は無いけど,どうしてもそういう心理的隔たりはある。また,キチェ語を話す人々の多くが地域間の違いについて認識していないケースが多いことも問題を深刻なものとしている。

具体例としてはパイナップルが挙げられる。ナワラ市ではch’opというらしいけど,カンテルではmatzati’。ただ,この単語も40代後半以上の世代は知っていても若い世代はスペイン語のpiñaしか知らないことも多い。また,キチェ族の大半はキチェ語のアルファベットでの書き方を学んだ経験がないため,大半のネイティブからキチェ語を学ぶには学習者にもある程度のレベルが求められる。学習環境は整っているとは言えない状態だけど,これがグアテマラで最大の話者数を誇るキチェ語での話だ。まぁ,その他の言語では地域間の差異を気にしなくて良い言語があったり良し悪しはあるけど。

まぁ,色々と困難を伴うキチェ語学習だけどグアテマラ西部地方の先住民文化を本当に理解しようとしたらその地域の言語の習得は必須かなと思う。

キチェ語を学ぶために必要なこと

キチェ語もレベルも少なくとも名目上は上級になったところでキチェ語やマヤ諸語を学ぶ上で必要なことを振り返ってみたい。

やる気は勿論だけどまずはスペイン語。キチェ語の教科書は英語でもあることはあるけれど、スペイン語のものが圧倒的に多いし、キチェ語自体もスペイン語を基とした単語が沢山あるため、やはりスペイン語は必須だと思う。中級以上であれば問題ないと思う。

それから必須だと思うのが自分で考える能力と割り切れる、若しくは諦められるということ。

自分で考えられるというのはキチェ語のテキストは統一性が無かったり、また、必要な情報が備わっていないことが多いので、状況に応じて対処したり判断する必要がある。先生がいれば質問するというのも解決策の一つとなり得るけど、他の解決策を探す必要も多々ある。

また、地方ごとに語彙が大きく異なるため、教科書に載っているものがある地域では通じないということも多いけど、その辺に関する情報が皆無に等しいので、その辺はそういうものだと割り切ることもある程度必要。完全主義ではとてもじゃないけどやっていけない。言語の本質を掴んでいれば割り切ること自体は問題とならない筈。

情報の欠如という意味では英語を始めとした欧米諸語と事情は大きく異なり、また、統一性という意味では習った経験のあるニカラグアのミスキート語と比べて大変。ただ、そういう困難を難なく受け止めて、また、マヤの文明や文化に敬意と関心を抱くことが出来るのであれば学ぶことはそれ程難しくはないとは思う。

Chqetam’aj le K’iche’ ch’ab’al! (キチェ語を学ぼう)。

Jujun wachib’al re qame’s

シェラ生まれカンテル育ちのうちの猫。シェラで飼っていたけど週末を過ごすカンテルの方が過ごし易そうだったのでこちらに移した。日中は色んな所に行っているけど人懐こい。個人的には犬より猫の方が性格に合っていると思う。

Jujunは数個、数枚の~という意味。wachib’alはイラストや写真。qame’sは私達の猫なので

jujun wachib’al re qame’sで私達の猫の写真数枚となる。