Kinya’ nutzij

今年の学習に関わる宣誓。Manifestではなくoath (juramento)。

Kinya’ ri nuk’aslemal chi uxe’ raqan uq’ab’ ri Qajaw che kipatanixik ri e nuwinaq.

Are taq kinchajij ri rutzil kiwach ri e qanan qatat, ri jun ja winaq, ri jun tinimit; qas kinb’an ri nuchak ruk’ ronojel wanima, ruk’ ronojel nuk’u’x.

Na jumul ta wi kinkoj ri wetamab’al chi ub’anik k’ax pa kiwi’ ri e wajil nutz’aqat.

Kink’xib’ej wib’ kinmej wib’, kinpachab’a’ ri nujolom chi kiwach ri e nab’eal taq winaq, chi kiwach ri saq kiwi’, e k’amal taq  b’e, e wajtijab’, ruk’ jun nimalaj maltyoxinik, che qas taqal chi kech.

Kinb’an wachalal chi kech, ke’nuloq’oj konojel ri e wach taq ajchakib’ apawije’ kinriqitaj wi, kwuk’a’j pa ri wanima, xuquje’ nim kwil wi ronojel taq uwach eta’mab’al kik’utum kan chi nuwach.

Ronojel wa’ kinpatanib’ej, kinchakub’ej, mawi kintz’iloj taj, na kwetzelaj taj.

Xane’ kinya’ uchuq’ab’.

Ralk’wal Ulew

500 Yearsのエンディング曲として流れていたカクチケル族の女性歌手サラ・クルチッチの歌。

Ralk’wal ulewとは直訳すれば土地の息子・娘という意味。alk’wal自体からは性別を判断することは出来ない。最初のRは英語で言うitsの様なものでつまり分解すると

Its Son/Daughter of Land

となる。土地というのは勿論この場合、色んな解釈が可能。このクリップではイシル族の先住民女性が証言する場面があるけれど、映画でイルマ・アリシアが言っていた通り、これは彼女にとって物凄く恐ろしいことだったと思う。証言する内容を考慮しないとしても。

Collective Memory(500 Years補足)

修士課程の時に関心を引いたコースにCollective Memoryというのがあった。同じ時間帯に統計のクラスを取らなければならなかったので結局履修することは無かったけれどずっと心に引っかかっていた。と同時に当時はあまりCollective Memoryの意味、重要性を理解していなかったと思う。

博士論文のテーマはcollective memoryとは大分異なるけれど、論文のための社会構造が及びす影響力を肌レベルで強烈に体感する契機となった。フーコーの考えをこういうことだったんだと理解し始めたのもその当時だったのかもと今では思う。

そんなことを500 Yearsを見ながら思い出していた。映画ではRios Monttの娘のZury Riosやこちらの経団連に相当するCACIFの記者会見の場面が何度か登場し、どちらも映画の中では悪者として扱われているけど(ドキュメンタリーなので明確にそうとは一言も言及されていないけれど)、これらの場面は色々と考えさせられた。例えばグアテマラでは大量虐殺は無かったという意見。時にキチェ県の先住民や内戦問題に関わってきた人間にしてみたらこの考えをただ単に否定し、虐殺は存在したと主張したいのは当然かなと思うけれど、ただ単にこれを否定することも危険な思想ではある。なぜ、何故否定するに至るかを検証することは非常に重要。例えばZury Riosの場合、勿論父親の立場もあり公共の場でそう述べていることに議論の余地は無いとは思うけど、彼女自身が本当にそう考えていても不思議はない。では何故?これって内戦後のグアテマラを語る上で重要じゃないかな。

余談だけどこの映画ではデモの場面が頻繁に出るけどその中で先住民の人たちが笛(ホイッスル)や吹いたり杖を持っている場面がある。この2つというのはマヤの人々にとっては非常に重要なものだ。笛は各々の集落で何か問題が発生し、助けを呼ぶ時に用いるため一世帯にひとつは大抵あると思う。杖はマヤの指導者的な立場の人たちが持つもので丁重に扱われている。

500 Years

先輩が出演している映画を見てきた。金曜日でしかも無料だけどグアテマラ・シティでは二日目の上演だからと思っていたらチケットを全て配布してしまったのこと。「もう今日は配るチケットは無い」と言われたけど、予約済みのもののキャンセル待ちが出ると判断し待っていたら何とか入ることが出来た。

確かに埋まっていた。

肝心の先輩はどうしても来られない事情が出来て会えなかったのは残念だったけれど、映画自体は見る価値がある。近年のグアテマラを題材にした映画では間違いなく最高傑作だろう。

3部に別れた映画で一番関心を引いたのは80年代の大量虐殺に関するリオス・モントの裁判。個人的にも知り合い(以上の人だけど)の父親が誘拐されたという話を何度か聞いたことがあるけど、やはりイシル地帯を始めとしたキチェ県のその当時の状況はカンテルとは比べものにならない。イシル語は全く分からないけれど発音でマヤ系言語と分かるし、そのトーンで字幕を見なくても話の内容は想像出来る。また、先住民のスペイン語の発音もカンテルの集落で話されているものと似ているためどうしても感傷的になってしまった。

その後第二部・第三部はそれぞれ鉱山・採掘活動・土地の権利問題とオットー・ペレス・モリーナ元大統領関連汚職事件発覚後の大規模デモについて取り上げていてどれも素晴らしい出来だったけど、この映画の質を高めている要因は身内びいきが多少入っているかもしれないけれど、イルマ・アリシアのナレーションであることには間違いない。

グアテマラの先住民女性ではまず間違いなく最も理論的な活動家・ジャーナリストであると思うし、グアテマラ全体でも彼女より優秀なジャーナリストはいても少数だろう。その点はもう一人の主役級の活動家と比べると明確な差がある。イルマ・アリシアは彼女の世代ではグアテマラの民族問題を含む諸問題を解決することが出来なかったと言っているけれど、彼女自身がもう少し前の世代の人間であれば内戦や民族問題はどうなっていただろうと考えてしまう。彼女自身頭の良い人だろうし、加えて彼女のアメリカでのアドバイザーも物凄く優秀な人だったことも、発言力や分析力を高めるのに相乗効果をもたらしたんだろうなぁと思った。

しかし戦う女性というのは偉大だなぁと思った。ドキュメンタリーだし、私にとっても当事者じゃないけれど他人事でもない悲しい事実を突きつけられる辛い映画にも関わらず、イルマ・アリシアが輝いて美しく見えるし、もう一人の活動家の子も凄く小さな体格であるにも関わらず映画の中でももの凄く大きく見えた。それだけの存在感があった。

この映画を見て公的教育はやはり重要だと思った。人に物事を明確に伝えたり論破するためにはそれなりの準備が必要。明治維新が成功したのも日本にはそれだけの人材が揃っていたことがその一員だけど、残念ながらマヤ先住民にはそういう人材を十分揃えることはまだ難しいと考えざるを得ない。サム・コロップも亡くなってしまったし。活動家は沢山いても維新後や士農工商の枠を超えた考え方が恐らく出来たであろう坂本龍馬の様な人材がイルマ・アリシア以外にいるかというと判断しづらいところがある。

最後に見るのが辛い映画だけど見て良かったし、見るべきだと思った。博士号を取ろうと決めた理由を実感し直したことに加えてまぁ、忘れていた色んな感情を取り戻せた気がした。

Muxanib’al

通っているジムの支部のひとつが最近引っ越した。近くに寄ったので見学。シェラからのバス停の近くなので、渋滞が酷い時は一泳ぎして、交通量が落ち着くのを待つことが出来るかな。

プールは6レーンしかないけど、混雑時を除けばまぁ大丈夫だと思う。
ジム自体も機材が新しいものを置いていた。大きさはうちの大学のジムの4分の1くらいだけど


同じCybexの製品を採用してくれているのは助かる。

Muxanib’alとは泳ぐ(muxanik)所という意味、つまりプール。ビーチはploという単語が別にあるし、そもそもキチェ語圏から比較的近い太平洋の海岸は波が高くてとても泳げない。