国立統計院のサイトによるとセンサスの準備は順調に進んでいるみたい。
そう願いたい。
で調査票も出来上がったそう。民族に関わる箇所はこんな感じ。サイトに掲載されているので公のものなのだと思う。
グアテマラのマヤ系言語が22全て項目に入っているのは立派。ただ、ハカルテコ語については現地の人は未だにポプティと呼んでいるみたいだけど。グアテマラでの正式な呼び方がハカルテコになってしまったので仕方ないけどね。
実際にデータを分析出来るのはいつ頃となるかな。
ヒスイはキチェ語でyamanikという。Yamanikはヒスイの他に宝石(precious stone/gem)全般を指す言葉としても使われる。グアテマラも原産地なので昔からヒスイを指す言葉が存在したのだろう。
で昨日はYamanikという名前の女の子に出会った。Esmeraldaという名前の子はスペイン語圏でもいるのでまぁ不思議では無いけれど。ヒスイとエメラルドは別物だから比較すること自体はあまり意味ない様な気もするけれど、Yamanikのスペイン語訳がマヤ言語アカデミーの辞書では何故かエメラルドのみ。
中等教育の教師を目指す学生とのこと。キチェ語は喋られないけど、しっかりコルテとウィピルを着ている。人懐こくかつ賢い子という印象を受けたけど通うのが大変そう。続くかな。
写真を見て気づいたけどペンの色がヒスイの色でもある緑色だった。助手も良くそんな色持っていたなぁ。
今年の学習に関わる宣誓。Manifestではなくoath (juramento)。
Kinya’ ri nuk’aslemal chi uxe’ raqan uq’ab’ ri Qajaw che kipatanixik ri e nuwinaq.
Are taq kinchajij ri rutzil kiwach ri e qanan qatat, ri jun ja winaq, ri jun tinimit; qas kinb’an ri nuchak ruk’ ronojel wanima, ruk’ ronojel nuk’u’x.
Na jumul ta wi kinkoj ri wetamab’al chi ub’anik k’ax pa kiwi’ ri e wajil nutz’aqat.
Kink’xib’ej wib’ kinmej wib’, kinpachab’a’ ri nujolom chi kiwach ri e nab’eal taq winaq, chi kiwach ri saq kiwi’, e k’amal taq b’e, e wajtijab’, ruk’ jun nimalaj maltyoxinik, che qas taqal chi kech.
Kinb’an wachalal chi kech, ke’nuloq’oj konojel ri e wach taq ajchakib’ apawije’ kinriqitaj wi, kwuk’a’j pa ri wanima, xuquje’ nim kwil wi ronojel taq uwach eta’mab’al kik’utum kan chi nuwach.
Ronojel wa’ kinpatanib’ej, kinchakub’ej, mawi kintz’iloj taj, na kwetzelaj taj.
Xane’ kinya’ uchuq’ab’.
500 Yearsのエンディング曲として流れていたカクチケル族の女性歌手サラ・クルチッチの歌。
Ralk’wal ulewとは直訳すれば土地の息子・娘という意味。alk’wal自体からは性別を判断することは出来ない。最初のRは英語で言うitsの様なものでつまり分解すると
Its Son/Daughter of Land
となる。土地というのは勿論この場合、色んな解釈が可能。このクリップではイシル族の先住民女性が証言する場面があるけれど、映画でイルマ・アリシアが言っていた通り、これは彼女にとって物凄く恐ろしいことだったと思う。証言する内容を考慮しないとしても。
修士課程の時に関心を引いたコースにCollective Memoryというのがあった。同じ時間帯に統計のクラスを取らなければならなかったので結局履修することは無かったけれどずっと心に引っかかっていた。と同時に当時はあまりCollective Memoryの意味、重要性を理解していなかったと思う。
博士論文のテーマはcollective memoryとは大分異なるけれど、論文のための社会構造が及びす影響力を肌レベルで強烈に体感する契機となった。フーコーの考えをこういうことだったんだと理解し始めたのもその当時だったのかもと今では思う。
そんなことを500 Yearsを見ながら思い出していた。映画ではRios Monttの娘のZury Riosやこちらの経団連に相当するCACIFの記者会見の場面が何度か登場し、どちらも映画の中では悪者として扱われているけど(ドキュメンタリーなので明確にそうとは一言も言及されていないけれど)、これらの場面は色々と考えさせられた。例えばグアテマラでは大量虐殺は無かったという意見。時にキチェ県の先住民や内戦問題に関わってきた人間にしてみたらこの考えをただ単に否定し、虐殺は存在したと主張したいのは当然かなと思うけれど、ただ単にこれを否定することも危険な思想ではある。なぜ、何故否定するに至るかを検証することは非常に重要。例えばZury Riosの場合、勿論父親の立場もあり公共の場でそう述べていることに議論の余地は無いとは思うけど、彼女自身が本当にそう考えていても不思議はない。では何故?これって内戦後のグアテマラを語る上で重要じゃないかな。
余談だけどこの映画ではデモの場面が頻繁に出るけどその中で先住民の人たちが笛(ホイッスル)や吹いたり杖を持っている場面がある。この2つというのはマヤの人々にとっては非常に重要なものだ。笛は各々の集落で何か問題が発生し、助けを呼ぶ時に用いるため一世帯にひとつは大抵あると思う。杖はマヤの指導者的な立場の人たちが持つもので丁重に扱われている。