葬儀屋が悲しむようなk’aslemal

マーク・トウェインの有名な言葉

Let us endeavor so to live so that when we come to die even the undertaker will be sorry.

葬式屋ですら悲しむように人生を一生懸命生きようといった意味。

毎日の様に人の死に接している葬儀屋が他人の死を悲しむ訳が無いと思う冷めた自分がいるけれど,実際にそういう光景を目の辺りにして考えが変わった。カンテルにはそういうk’aslemal、人生を送っている人が多くいると実感した。

ある先住民女性の埋葬に同行したときにそれは起こった。本当に葬儀屋のおじさんが涙ぐんでいた。家族は殆どが失神してしまい,泣くどころの騒ぎではなかったけど。他人の比べて特筆すべきところはなかったかもしれないけれど,日々一生懸命子供や孫の世話をしてきたことがこんなにも惜しまれて亡くなったことに繋がったのだと思う。読み書きが出来ないことを恥ずかしく思っていた方だけど,埋葬の場に立会い立派な人生を送られたと感じた。

無理だと思うけどそういった人生を送れたらなぁと願ってやまない。そういう心の琴線に触れてくれる人に会いたくてこの小さなマヤの村を離れることが出来ないんだなぁと思った。

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